機械仕掛けの豚

クソみたいな世の中だと憂う前に、目の前のものを愛そう。

ハローベイビー

仕事中に電話をとったのが昼の十二時。
「もう陣痛始まっていて、今病院に向かってるとこ…」
という、カミさんのしんどそうな声。
急いで目の前の仕事を整理して、会社を出たのが十二時半。


外は小雨が降っていた。
なんだか気が急いていて、慌てているのが自分でもわかる。
「心ここにあらず」とかいうけども、
ほんとに遠くに思いを巡らせてしまうと、
傘を手に持っているのに傘をさしていないというようなことを
やっちまうんだ。


駅に着いた瞬間に電車が来た。
そのとき携帯が鳴って、お義母さんだった。
「病院に着いたのだけど、もう子宮口がずいぶん
開き始めているから、ちょっと生まれるのが早いかもしれない。
でも焦らないで、気をつけてきてね」
「わかりました、ありがとうございます」と言って電話を切る。


電車に乗ってる間、親や兄妹や幾人かにメールをした。
陣痛、始まりました。
いよいよじゃね!がんばれー!
ありがとう、伝えとく!


家に帰りついたのは一時半。
急いで清潔な服に着替えて、すぐに病院に向かう。


車を運転しながら、一人目が生まれた日のことを思い出す。
あんときはもう日が暮れていたよな、
子供が生まれるんだ、誰に、俺だ、まじか、おいどうしよう、
みたいなことを考えてきた気がする。
おい俺、
今度は女の子が生まれるんだよ。わかってるか俺。
子供がふたり、になるんだってさ。
四人家族、になるみたいだよ。
うそだろ。うそじゃないよ。
信じられないだろ。信じられないよ。
女の子のおとうさんになるんだよ。
うおー、まじか。まじだ!


病院の近くには大きなイオンモールがあるのだけど、
祝日のせいか、道はぶっちぎりの渋滞。
「どけこの野郎子供が生まれそうなんだよ
行かしてくれよ俺を俺を俺を!」
とか言いながら爆走したいけれど無理だ。
こういうとき、ほんとにイライラしてしまう。


病院に着いたのは二時二十分頃。
渋滞のせいで、思ったより時間がかかった。
分娩室があるという二階に上がるとお義母さんたちが
待ってくれていて、
「もう生まれそうなんよ!早く早く!」
と言った。
「ええ、もうですか、ほんとですか!?」
と答えながら、急いで分娩室に行く。


中に入ると、もう、まさに生まれようとしているところだった。
目まぐるしい展開にいささか気持ちが
追いついていなかったのだけど、
「頭、出ていますよ。もうすぐですよ。もうすぐ生まれますよ、
いっかい深呼吸しましょう、次のタイミングでたぶん生まれますよ」
と先生が言って、カミさんが、はい、わかりました、と言って、
そのしんどそうで必死な声を聞くと、もうダメだった、
一撃で泣けた。
「ほらもう頭が見えてますよ、わかりますか、わかりますか」
「わかります」
「生まれますよ、もう生まれます…」


そして二時半、彼女は、生まれた。
頭の先が見えて、それからくしゃくしゃの顔が見えて、
小さな手足が見えた。
「生まれましたよ!おめでとうございます」
先生の明るい声が聞こえて、
ちっちゃい赤ちゃんがウギャーと泣いて、
カミさんが口をぎゅっと閉じた顔で泣いてた。
俺も泣いてた。


「生まれてくれてありがとう」なんて臭い台詞だと思うけど、
俺がそのときに思ったのはそれだった。
生まれてくれてありがとう。
それから、生んでくれてありがとう。
俺が来るまで待っててくれてありがとう。


カミさんに、お疲れ様、よく頑張ったね、と言うと、
また少し泣いてから、笑った。


分娩室の外で、長男は、わかっているのかいないのか、
ただ嬉しそうにしていた。
お義父さんもお義母さんも嬉しそうにしてくれてた。
ああ、今日は嬉しい日だ、と思った。


ハローベイビー。
俺がおとうさんです。
俺はきっとこれからたくさん、おまえのことを心配するよ。
俺はがんばるよ。おとうさんだからね。
これからずっと、よろしく頼むよ。