カリスマ性と協調性。
相反する面もある。
でも、今の日本に求められるのはやっぱりカリスマだ。
特に主張がなくてただ協調性があるだけでは、
とりあえず多数派を尊重するだけになってしまう。
それはほとんどの場合、現状維持だ。何も変わらない。
主張をはっきり持っていて、
その主張で説得して多数派を引き込むことができて、
対立する主張も部分的に飲み込む協調性を持つ、
それがカリスマだと思う。
カリスマは時に独断を求められるし、
それは敵と味方をはっきりさせることでもある。
難しいのは、何に対して独断し、
何に対して協調するか、なんだろな。
普通に考えたら答えは簡単だ。
政治家がたやすく口にする「民意」というやつ。
あくまでも民意を尊重するという大前提があるなら、
独断も協調もできる気がする。
でも実際は、「民意」以外のものが邪魔をする。
「お金」だ。
「お金」の提供者、すなわち企業や一部の資産家の思惑は、
多くの場合「民意」とはそぐわない。
だから、本当に民意を尊重するという大前提を貫こうとしたら、
自己犠牲に近い精神がいるのだろう。
あまりに誘惑の多い世界になっちまった霞ヶ関の渦中で、
そんな精神を貫くことは並大抵じゃないんだろう。
…そんなヒーローのような人間はいないわな。
自身の損得勘定でこれを決定するようになっちまったら、
それはもうカリスマではなくて独裁者だ。
でも、あまりにもカリスマ不在の時代が長引くと、
過激な主張を掲げるカリスマ的な独裁者でも支持を
集めることがあるという。
そうなる前に、なんとか現れてくれないかな。
みんなが待ち望んでるんだけど。