機械仕掛けの豚

クソみたいな世の中だと憂う前に、目の前のものを愛そう。

臓器提供をする人と遺される人

六歳未満の子の臓器提供。
ご両親のメッセージは心に響くものがあった。


もし、自分が若くして亡くなることがあって、
自分の体の一部を提供することで誰かが救われるなら、
そのこと自体に抵抗は無い。


でもたぶんこの問題の難しさは、
遺された人たちが本当に納得できるかどうか、
ということのように思う。


もし自分ではなく、
自分に近い家族の誰かが臓器提供の意思を持っていたとして、
その承諾をしてください、と言われたら、
果たして「どうかお役に立てて下さい」と言えるだろうか。


葬儀とは別れの儀でもあるから、最後の最後に顔を見て、
お別れの言葉を述べて、心の整理をする意味もあると思う。
仏教徒であるなら、それに沿った慣わしももちろんある。


まず、それを普通に執り行うことが難しくなる。
魂の宿った体だ、最後は顔を見てゆっくりさよならを
言わせてほしい、
そして儀に沿って穏やかに逝ってほしい、
と思うだろう。
その辺りのことを割り切った上で、
「どうかお役に立てて下さい」と言えるかというと、
正直、自分は言えない気がする。


だからこそ、決断をした家族の意思は崇高だ。


そのことによって誰かが救われる。
三者が口を挟むべきではないし、
その判断を否定してはいけない。