機械仕掛けの豚

クソみたいな世の中だと憂う前に、目の前のものを愛そう。

そこで多くの人が死んだ

5年前に書いた雑文。
一部修正して転記。

                                                                                                  • -

自分が今住んでいる場所からそう遠くない場所に、
レンガ造りの大きな廃墟が立ち並んでいる場所があります。
その建物の鉄製の窓はもう錆びて朽ちているため、
窓が落ちないようネットがかけられているのですが、
よく見るとこの鉄製の窓、不自然にグニャッと変形しています。
この変形が何を意味しているかというと
原爆時の爆風を受けたから、なのだそうです。
言われれば窓が変形している面は、確かに
市内の爆心地の方向を向いています。





機会があってこのレンガ造りの建物の近くで自営業を営む
おばあさんと話をすることがありました。
その時にふと話題がおばあさんの昔話になり、
自分にとってはちょっと思いがけない話を聞く ことになりました。
「実は私は被爆体験者でね。
原爆が落ちた時、中学校の校舎の中にいたんよ」


レンガ造りの建物が「被服廠(ひふくしょう)」と呼ばれる軍服などを
生産する施設だったこと。
その前の道路には、港と広島駅を結ぶ重要な線路があったこと。
原子爆弾が投下されたとき、それらがすべて崩壊して
辺りが火に包まれ、家族の身を 案じながら急いで帰宅したこと。
その途中、家の下敷きに なった人から助けを求められたものの、
何もできなかったこと。
そしてその人から「恨みます」と言われたこと。


ガラス窓の近くに立っていた人の半身にガラスが突き刺さっていたこと。
やけどが痛くて、腕を前に突き出して歩く人たち。
道端に放置されたままの遺体。
川一面を埋め尽くすように浮かぶ遺体。
埋葬などできるはずもなく、築かれていく遺体の山。
火を放つと、まるで踊っているかのように動く遺体。
そして街中に漂う異臭。


それは本当に地獄のようだった、と言った時、
おばあさんは少し涙声になられていました。


話の内容は具体的で、ほんとに悲惨なものでした。
自分にとっては普段生活している圏内で起こったことなわけで、
話の中に出てくる建物を 知っているだけに、
今までに聞いた戦争体験の中で一番生々しく聞こえました。
話を聞き終えた時に、僕は貴重な体験を話してくれた
ことのお礼を言い、
つらい経験を思い出させて しまったことを謝りました。


戦争を心から悲惨なものだと一番身にしみて分かっている
のは、やはり戦争を経験された方だと思います。
その絶望がどれほどのものだったか想像しようにも、
それは本当に自分の想像が及ばないレベルです。
だけどその話を聞いた時は、戦争は本当に悲しいもの
だったのだと、感情で理解することができました。


自分は今の平和な世の中にどっぷり浸かってしまって
いるので、60年前(当時)に起こった悲惨なことについては
どこか「歴史のほんの一部」という認識になっていました。
「戦争はいけない」ということを「知識として
知っている」というような感覚です。


たとえば自分がこの感覚のまま、自分の子供に
「戦争はいけない」ということを伝えた時、
それが 本当に悲しいものだとちゃんと伝わるかというと、
まず伝わりません。
そうすると彼らの世代では
「戦争はいけないことは 知ってるけど、
核くらいは持っていてもいいん じゃない?」
という感覚が、割と普通になってしまうんじゃないかって気がします。


考えてみれば今の平和な世の中になったのはたったの60年前で、
それ以前は日本も何年も何十年も何百年も戦争ばっかりしていたわけで。
そうしてやっと戦争が悲しいものだということが分かったのに、
それを伝えるのを少しでも止めてしまったら、
たぶんあっという間に世の中の風潮なんて変わってしまいそうです。


少なくともこれから自分が関わりを持つ(と思う)子供たちには
「戦争はいけないことは知ってるけど、
核くらいは持っていてもいいんじゃない?」
なんて言ってほしくないんで、
時々はこういう真面目な話をして、
戦争はいけないということを知識としてではなく
感情として理解してもらうようにしたいと思います。


(転記ここまで)

                                                                                              • -


今年の春、このおばあさんに会った。
ぜんぜん元気そうで安心した。


明日は8月6日。
追悼の日。